2007年11月26日

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moon2q.jpg 私はモノレールが来るのを待っている。簡単な作りの、鉄板と鉄骨で組み上げられた高架のホームにいる。そこには数人の男がぼんやりと立っていたり、欄干にもたれて、鬱陶しいビル街を眺めている。
 しばらくすると二両編成のモノレールが到着した。このホームは終点だった。だから我々はのんびりとした調子で、ぞろぞろと乗り込んでいった。しかし私はこの乗り物に乗るかどうかをここまで来ていながらいまだに躊躇しているのだった。乗ってしまったならば目的地は行った事も見たこともない所なのだから、たぶん「下界」を歩き回りたくなるに違いない。そうなると戻れなくなる可能性がある。
 これに乗ることは目的地をすでに歩きだすことと同様の決心が要った。私は私の分身をレール上に残して、ついにモノレールに乗ることに決めた。これは苦肉の策だった。なぜなら私は本当にはこの乗り物に乗ってなどいないのだから。
 私の抜け殻は私のいる車両の中からその鋼鉄の床や車体を通り抜けて、斜め下方にゆっくりと降りていった。やがて車体の真後ろのコンクリートの上に「私」が仰向けに横たわるのが見えた。
 乗客はあれこれと様々な愚痴を言い合っていた。雑多な連中はそれでももっともな憤慢の理由をもっていて、世代もその性質も総称出来るような集団には見えなかったが、「だから地獄に行くのだ!」という結論においては一致していた。
 私はコンクリートのレール上に横たわる「私」にしばらくの別れを告げる一瞥を投げた。斜め下方に見える「私」は頭を向こうにして横たわり、眠っているかのように見えた。私は車体の最後方の窓に体をすり寄せるようにして外を観察していたが、ふと気が付くと乗客の中には子供の頃に知った懐かしい顔がいくつかあった。
 この路線は必要以上に蛇行している。おそらく劇的効果を狙っているのに違いない。やがて大きなカーブを描くとやや下降して行き、はや目的地の圏内に入っている事が下方の眺めから知れた。
 窓の下に拡がる世界は、小さな区切りを果てもなく仕切った広大な迷路といったところだった。細部は子供だましの作り物であって、「恐怖の館」といったような遊園地風の色彩に塗りたくられていた。よく見ると人々はほとんど裸でいた。あちこちには鬼や悪魔がいて、何やら義務的な、職業的無意識に従った手慣れた動作で彼らを鞭打っている威張った様子が見えていた。
 周囲にあるものも全て作り物くさく、リアルである必要など何処にも無いではないかと言いたげであった。このような世界を隈なく見せるために、モノレールはその上を巡回し、地上すれすれに接近してみせたり、スピードを上げて急なカーブを曲がったりした。つまりこれはやがて来る終点までに、下界に降りるかどうかを乗客に考えさせる猶予を与える目的でレールが設置されているようだった。
 下の世界に入れば食っていく上での心配は無い。この「遊園地のような地獄」は国の公共事業の一端であるからだ。鞭打っている鬼は徹底的にそこの住民を脅しはするが、決して殺したりしない事を彼らは知っている。毎日一定時間の懲らしめが終われば彼らは苦しむという義務から開放され、鬼や悪魔の役をうんざりしながら演じていた公務員達もその職務から開放される。全てはとどこおりなくだらだらと続けられ、たまに野戦跡のような崩れた壁の影で、苦しむことをさぼっている亡者が、つまらない噂話や愚痴を言いあい、何処の地区が最も厳しいかなどといった情報を交換している様子が見えるのだった。
 彼らは結局のところ栄養のバランスを整えて注意深く作られた食事を与えられ、また十分な苦しみには十分な報酬が与えられている。しかも本人の希望やしかるべき審査によって彼ら鬼と亡者の役割はいとも簡単に交替されていた。私はこれらの馬鹿げた張り子の岩や、絵の具の血に染まった拷問台やらの散乱するコロニーを見ながら、生活の心配が消え去るというありがたい保証があったとしても終点で降りるのはよそうと思った。あまりにもばかげた世界だと思ったからだ。
 やがてまったく同じ作りのホームに到着すると乗客はぞろぞろと降りてゆき、辺りには誰一人居なくなってしまった。そしてモノレールは運転手を交代して折り返し運転を始めるために物音ひとつたてずに放って置かれた。私は遙かに見えなくなってしまった出発点のレール上で、「私」が帰りを待っているに違いない事を思い出しながら、ただ一人そのまま乗っていた。
 
 気が付くと私は相も変わらずベッドの上に置き去りにされていた。そして「私」はすぐに夢の中から帰って来た。
 ― 地獄の遊園地とは恐れ入ったな。― 私はベッドの上で笑っていた。あまりにそれと分かる単純な象徴に満たされ、何とも稚拙な世界観が見え隠れしていると感じたからだ。しかし「地獄」が社会福祉の一端であるというのは何とも可笑しい話だ。そしてその後、この夢の細部を思い出してはその滑稽さに呆れるのだった。
 起きてみるともう日が沈む頃だった。あと二三日夜ふかしすれば私は夜ばかりの世界に入ってしまう。夜の紺色の空が窓硝子を染め始めると、夜通し起きて本を読み、テレビにうんざりし、酔っ払いのたむろする真夜中の街をぶらぶらと散歩する。街路の水銀灯に照らされた人気の無い遊歩道や、思い出したように車が走りぬける沼のようなアスファルトが、水族館の水槽の底のように浮かび上がる。私はさしずめ深海魚のていで徘徊する。
 そうしているうちにやがて朝焼けを見ることになる。闇に沈んでいた街の家々を、街角のあらゆる路地という路地を、小さな公園や街路樹を包む空気が次第に透明度を増してくる。やがてそれらは一瞬、透明な明るい青に包まれる。それが過ぎると街は一転して惨めな醜態をさらけ出す。朝焼けをわずかに残した白々とした空が街中の汚物を残さずあばき出す。私はそのまま歩き続け、起きていようかどうか考える。静かな煩わしさのない夜をいくら好んでいたとしても、夜通し起きていたところでつまらないのだ。そんな頃には図書館も本屋も、気まぐれに行ってみたくなる店も画廊も、グレイのシャッターをおろして、ただの壁になっている。急に思い付いて訪ねたくなる友人もすでに眠りについている。どんな夢を見ているのだろう?
 
 もう一ヶ月近くも私は人と言葉をかわしていないことに今日気付いた。近くのコンビニエンスストアで買い物をする時ですら一言も必要がない。とりあえず入用なものはすべて奇麗に包装され、整然と並べられ、私がつまみ上げるのをただ待っている。そして黙して金をやり取りする。街では人々がおし黙って秩序正しく右往左往している。人々が言葉を発しないのを見るのは本当に気味の悪いものだ。
 
 久しぶりに人と話をして見ようと思い立った。彼はたぶん部屋に居て、拍手を送りたくなるほどの下手糞な油彩画を部屋に並べ、相変わらず焼酎などを呑んでいることだろう。
 迷路のような路地をぬけ、近道をしてアパートの二階へあがると彼の部屋のドアは大きく開け放たれていた。千客万来というところか。大小のキャンバスがそこここに立てかけられ、油絵の具は木箱から溢れ出て、しわくちゃにされたチューブが鉛色に光っている。やたらにビール瓶が転がって、立てられた十数本の瓶は茶色の群れを成している。これら全てが狭い畳の上に展開しており、彼はその隙間を利用して一人座っていた。彼は焼酎をすすめ、私も飲む。窓はこの暑さにごうをにやしてか、スライドする窓枠全体を外してしまい、つまり窓の大きさそのものが全開になっている。こうまですると雑木林とガラクタで手の付けられなくなった中庭からのいくぶんか涼しい風が部屋を通るのだった。
 絵を描く者同志が集まってもまず何も始まりもしなければ騒ぎも起こらない。惨憺たる無言の行が始まってしまうのが通例だ。彼のそばには自分の愛しているビール瓶を描いた作品が何枚も立てかけてある。それはエメラルドグリーンにジンクホワイトを混ぜ込んで塗り伸ばすという乱暴な代物で、私にはこんな大胆なことはとても出来そうもない。というのも化学変化を起こしてその色彩が一年と持たないからだが、色調が強い印象を残すなかなかの作品だと思う。
 他にも色々と描いたものが散在しているのだが、中でもこのビール瓶の連作が抜きん出ている。筆の勢いとマチュエールがこの作品でガラリと変わってしまっていたからだ。
「それがいいね、その調子。こういったモチーフで君はどんどん押していったらいいと思うな」
「ふん、君もそう思うか。今通っている教室の先生も同じ様な事を言っていたな。君はこれでいけってね。こんなものをね…」
 彼はつまらなさそうに自分のその絵を眺めると焼酎の入ったコップを透かして絵を見る。もしかしたら彼は自分の作品の粗削りで無骨な手際に不満を感じているのかも知れない。自分に無いものを人は欲しがるものだ。しかし画家ならそうであってはならない。
 彼の額は始終注がれる酒のせいで油を塗ったように光っていた。油彩画などに入れ込んでいる男としては、彼は珍しく快活すぎるような印象を与えるかもしれない。しかし実のところ、一家を成すほどの画家に見られるあの妙に快活で、如才無く鼻持ちならない様子や、これこそ信じ難いことなのだが、どう見てもサラリーマンといった体で政治的手管を見事に操って地歩を固めるおなじみのタイプ、といった画家の未来象に繋がらないわけでもない。
 銀座の地図上に星座のように点在する小さなギャラリーで個展を開いているような連中は総じて訥弁で、たまに入ってくる客に暗い顔を向けてみたり、持ち込んだウイスキーをおもしろくも無さそうに飲み、あるいは真剣な面持ちでおじぎ草のように挨拶ばかりしている連中の中で、たまに彼のように底の抜けたような陽気さを発散する者もいる。すると「これはもしかして…」と思うのである。そして作品を見る。まず大抵の場合、どうにもいただけない悪性の「クセ」に凝り固まっていたり、(これを探求ととり違えていることがよくある。)いまだ発表する段階に至ってはいない、粗く稚拙さの見えてしまったものを、持ち前の無邪気な行動力によって画廊の壁に腕ずくで張り付けたたぐいの物だったりする。
「いつも思うんだが、あまりに批判力ばかりが旺盛になった目を持つ者にとっては自分の手の筆なんぞ苦痛以外の何物でも無いね。ろくなものが描けやしないんだからな。」
 描いているのかという問いに対しての私の答えだった。絵などを描いている者にとっては描きたくても描けない状態や、描くもののない状態、つまり何を見てもおもしろくない状態や、描いても反吐が出るほど下らないといった状態をお互いにうんざりするほど知り抜いているので、改めてそんな論議を始める無神経さを思いやって押さえていたりする。私は逃げを打って画家の道具に話を転じた。
「…君はニュートンの絵の具など使っているのかい? 豪勢だな」
「ああ、これはね、新宿の画材店で古くなって油が滲み出したような物を一山いくらで売ってたという代物さ。」
「どうだいニュートンは。」
「伸びは良いようだけど…何しろ変質してしまったものだからな、何とも言えないな。」
 古今東西の名画の亡霊に押し潰されそうな我々が膝を交えると、どうしても下らぬ雑念が互いに見え透いてしまう思いに駆られるのだった。しかしこんな眼高手低に陥るにしては彼の手はあまりに無骨すぎて、持ち前の快活さがあらゆる「名画」という幽霊から身を守っているかのようだった。しかし、色彩と造形の神秘を手中にした画家にとっては、実のところ何を描こうとそれは絵画となる。そしていまだそれを捉えるに至っていない者にとっては、何を描くかということは重要な中心軸であって、難問であり続けるのだ。それは何故描くのかという内部につながる。しかし画家というものは本来全く無邪気な者なのだ。
 窓枠で四角に切り取られた中庭の狭苦しい眺めには、今日最後の熱気に包まれた木の葉がオレンジ色に反射していた。それでも今日はめずらしく風が部屋を吹き抜けている。彼の部屋の片隅には蜘蛛の巣がはっていて、風に揺らいでいた。直径四十センチほどの多角形を成す蜘蛛の糸のアンテナの中心に、見事に気味の悪い大きな蜘蛛が風に揺れて、何やら巣を繕っている。
「見ていると面白いやつでね。放ってあるんだよ。」蜘蛛はまだらの細い脚を広げて獲物を待つ。
「私の部屋にも一匹冴えない色の小さいやつが居たけれど、あまりに獲物がかからないものだから巣をたたんで何処かへ行ってしまったね。」
「え? そうかい…」と彼は妙に感心する。
「そう。いつまで待っても何も捕れないなら蜘蛛だって場所を変えようと思って何処かへ行くさ。」
しかし何百年も同じ方法で、そして何千年もうっかり者の昆虫がそこに引っ掛かり続けるだろう。
 
 外に出るとアスファルトの黒々とした小川から熱気がた立ち昇っていた。歩いて行くと絶え間ない発汗のせいで、酔いはとうに何処かに霧散してしまっていた。これでは飲む端からアルコールを発散しているようなものだ。むしろ久しぶりの人との無駄話のせいで頭の芯が発熱しただけのようにも思えた。
 建て込んだ住宅とアパートだらけのこの辺りの道は、それぞれの狭苦しい地所を頑なに主張するために鬱陶しく仕切られたブロック塀とモルタルの壁の隙間でしかなかった。だから道は歪んだ網目のような、見通しの効かない迷路となっているのだ。庇の下の壁と壁、ブロックとモルタルの隙間である細い路地という路地の全てが黒いアスファルトに覆われている。するとやはりこれは道なのだ。生温い獣の体を踏むかのような感触を足に伝えてくる、溶けかかったアスファルトもようやく固まりかける頃だ。そうして歩いているうちに、妙に鮮やかな青インクに染まった月夜空の下を歩いていることに気付くのだった。
 
 私は夢の中から結局、モノレールに乗ってその様子を俯瞰するだけで帰って来てしまった。思い出してもそこはさしたる恐怖も嫌悪は感じられなかった。ただ、ただ、あまりの馬鹿々しさにうんざりしただけだった。ここのまるで蒸気のように熱されて淀んだ空気。大地震によって出来上がったかと思わせる、まるで虫歯のように汚らしい街並。そしてあざとく妙に鮮やかな紺色の夜空の下。月に照らし出されたごちゃごちゃの迷路。
 アパートや家の塀を通り過ぎるたびに垣間見える、縁側の硝子窓はどこもいっぱいに開けられていた。アパートのドアは開け放たれ、家々の戸やドアや小さな窓という窓がことごとく開けられていた。そしてそこに人々の生活の一瞬が、皓々と照らされた白や黄色の光の下に四角に切り取られて輝いていた。そしてその誰もがテレビのブラウン菅の色彩にその顔を染めていた。私が歩き進むたびに見えるブロック塀の向こう、生け垣の向こう側、木の茂みや物置やらに見え隠れする、無防備な大きな窓から見えるその誰もが!
 私は立ち止まる。
 ―あの夢の中で私は二人になった。一人は地獄行きの列車に乗り、もう一方は出発点のレール上で待っていた。そしてこれらを夢見ていた私が居る。―
 モノレールというのは私が生活している街、都市を俯瞰でき、しかも地上から遊離しない位置を得るための道具だろう。これらによるとあの地獄は通常の都市や街並と地続きであって、地下にある訳ではなかった。しかも自らの意志で避けることもできる場所だった。隔離されてはいるがいつでも行くことのできる場所ということになる。そしてあの乗り物は確かに切符は要らなかった。
 私はすでに歩き出してこの様な埒もないことを考えていた。そしていま歩いているこの不快な場所を思い合わせると、自身がいまだ分離したままの実体の無い影として歩き回っているように感じるのだった。まるで今、目を覚ませばたちどころに「現実の私」に戻って行けるかのように。
 申しわけ程度に造られた低いブロック塀から、わずかも離れていないアパートの大きな窓の前を通る。一人の青年が寝そべっているのが見えた。電灯を消した部屋がテレビの色彩に染まっている。その開け放たれた一階の部屋の網戸を通して見えた彼は、テレビの画面に顔をくっつけ、鮮やかな赤や青の光にいそがしく照らし出されていた。そしてそこに写し出された様々な馬鹿騒ぎを見て、声をあげて笑っていた。その青年の孤独な笑いは通りすがりの私にも少しうつった。
 私は夜の空を仰ぎ見た。それは巨大なテレビのブラウン菅に写った藍色というわけではなかった。
 ― ドアがあれば私はここから出ていきたいのだが。―
 私はただそうつぶやいてみた。
 
 
 
posted by JP.フィールド at 02:46| ウィーン | Comment(0) | TrackBack(1) | 文学・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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