2007年11月24日

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rasen ねばつくように湿った空気の淀みもやっと薄らぎ始め、やがて風がそれを吹き払ってくれる頃となった。
 ヒットラーファンの友人と別れてから一週間も経たないある日の夕方に、一枚の葉書が届いていた。文面は、
―この所ずっと順調。病院行きは取り止めになった。化粧品会社の研究室に入れるかもしれません。決まったらまた例のところで会いましょう。― というもので、葉書の文面にかぶさって、Das Strenge Geheimnis(極秘)と読める赤いゴム印が斜めにベタリと捺されてあった。おそらく街の判子屋に注文したものだろう。
 ―順調? これは大変な事になるぞ。― と私は思った。こういった類の病人が自分を順調などと言い出すと、ろくなことを起こさない。だいたい人に手紙などを書き始める事自体が彼にしては尋常ではないはずだった。私はこの葉書の内容を信用しなかった。
 そういえば彼が持ってきてくれた抗鬱剤はやはりまるで効かなかった。それどころかアレルギーを起こしてひどい目にあったのだった。葉書を引き出しの中に放り込み、私はこの友人の安否を思うことは止めにすると、そのうちすっかり忘れてしまった。
 
 快適な気温と十分な睡眠のせいか、私は散歩に出かける度にその足を延ばし、またギャラリーを覗いてみる気になるのだった。
 ある日、私の気に入っている画廊の一軒に立ちより、地階への階段を降りてみると、知り合いの画家がそこで個展を開いていることがわかった。その画家からは個展案内のポストカードが一カ月も前に届いていた事をそこでやっと思い出すのだった。案内カードの郵送を早まるとこういう事になる。見ると期間は今日までで、私は彼を危うく無視するところだった。
 フロアー中央の黒いソファーに今日は画廊の若い店主が、育ちの良さそうな笑顔で、暇つぶしに売れない抽象画家の話をしているのだった。今日の主役であるはずの画家はと言えば眠そうな顔をしてソファーに深々と沈没していた。私は簡単に近況を話し合って、混み入った話にもならないようなので、勧められるままにソファーへ仲間入りをした。
 やがて店主の話が、デュシャンの小品を扱っている画廊のことになると、彼は笑いをこらえながら言った。
「…売れたそうですよ、あれ。例のデュシャンの『泉』があったでしょう。」
 あんなものが売り物になるとは思っていなかったので、私はただ興味本位に訪ねた。
「銀座の画廊に置いてあったあの便器のことですか?」
 店主は思わず指を上げた。
「そうそう。それでね。お買いになった方がそれを何処に置いたと思いますか?」彼はますます笑いをこらえながらこう言った。
「壁にね…ネジで取り付けて果物を飾る器に使っているそうです。」
 画家も私も笑った。
 デュシャンの作品の中でも「レディーメイド」を選ぶなんていうこと自体が変り者には違いない。あんな黒のペンキで署名しただけの代物をよく買い込んだものだと感心していると店主は奇妙なことを言い始めた。
「ああ、あれはね、コピーなんです。」
と言ってのけたのだ。
 私はそれ以上聞き返すことをためらった。『コピー』だと?…いったいこの男は何を言い始めるのだ?…
「泉」に使用された便器は、慎重に選ばれたものかも知れないが、さほど特別なフォルムを持ったものでもない。特殊なものならば『レディーメイド』の意味が薄れてしまうからだ。当時としてはありふれた陶器製便器である。今や我々は、コピー製品、剽窃作品、コピー文化に毒されて、誰もそんなことにいちいち目くじらを立てることはなくなったかのようだ。この恥知らずな国のアーチストの「作品」は、デュシャンのこうした一連の作品が持つ一撃によって笑いとばされてしまったのだ。
 この作品『泉』はこねた粘土が鋳型に詰め込まれ、(それは正しく詰め込まれなくてはならない)次々と焼かれて出来上がって行く。ここですでに「泉」候補は大量に生産(コピー)されている。デュシャンはそこに、あのすばらしく乾燥したミイラの様な腕でDuchampと署名しさえすればよい。そのとたん、その便器は美術史上の決定的な証拠物件に変身する。デュシャンに選ばれたことによってそれが生産品(コピー)ではなくなる。しかもレディーメイドとして…。
 しかしデュシャンに関してうっかり首を突っ込むと、近代工業史や社会学説、経済論やら、文学的御託宣やらを巻き込んだ物語と演繹的推考を要する無益で奇怪な空転の論説が始まってしまう。彼の作品について何か言うときは気をつけなくてはならない。何しろ彼はそんな不毛な論争をあらかじめたっぷり含んだ作品を好んで発表したのだ。
 画廊の真中に置かれた黒い皮のソファーに坐った私と、すぐ側に沈み込んでいた画家もしばらく言葉を失ってしまったかのようだった。彼がこの事をどう思っているのかは判らない。しかし私はデュシャンのそんな手には乗らないつもりなので何も言わない。三人がそれぞれ考え込んでしまったかのような図であった。そこにちょうど、美術評論ではあちこちにその名を見る、洒脱な皮肉の染みで汚した雑文を書き散らすので有名な初老のコラミストが階段を降りて入ってきた。といっても店主がその名を呼ぶまでは私はそうとは知らなかったが。
 知り合いが二人も居て、私を含む三人が茶なんぞ飲みながら、不景気な顔をしているのが面白かったらしく、さっそくそばの黒いソファーに坐って沈黙の仲間入りをし始めた。デュシャンの傑作『大ガラス』の、思索を誘う効果。あるべき場所に目立って効果的なあの罅が、実は作品の輸送中に誤って壊してしまったものをデュシャンが小さなかけらの一つも残さず持ち帰り、彼自身が修復した結果だという話も、よく考えてみるとどうも胡散くさい。この胡散くささを引き継いだ現代画家として思い浮かべられるのはウォーホルぐらいのものだろう。デュシャンの造形を継承したと思しき版画家は日本人にもいる。しかし彼は残念なことに自分の作品について長々と論説しなければならなかった。ストーリーまでを含めた継承は説明書付の絵画という、あり得べくもないスタイルだ。
「まあ、あなた、こんなところにいらしたの?」と、一人の女性が入り口から評論家の方に近づいてきた。「こんなところでおあいにくさまでしたね。」画廊の店主が笑いながら引き継いだ。「ごめんなさい。先日はどうもご足労願いまして。なんだか無駄のようでしたわね。」と店主に丁寧に挨拶をする姿は上品だ。
「そんなことはないさ、やつは喜んでたぞ。ところでこの床のジュウタンは濡らしてもいいんだろう? 内装を全部変えるというんだから。」
「けっこうですよ。詰まるところ、大掃除ですからね。」店主は評論家にそう言った。
「じゃあカガミを持って来よう。真中にドンと置いてね、ソファはかたして。そうだ。矢内君に声をかければいい。彼はパーティーを盛り上げてくれるだろうからね。けっこうな連中を少なくとも五、六人は呼んでくれるだろうから。」女にそう言ってから評論家は私の方に向くと「あなたもいらっしゃいよ。土曜日に大掃除のお祝いをやるんだ。カガミを開いて酒は飲み放題、雑多な連中が集まるから面白いはずだよ。」
 おとなしくしていた画家がしんみりとした様子で茶を飲みながら言い添えた。
「彼はね、この画廊をやめちまうんだ。」と言う。店主はさっぱりした調子で言う。
「そう。それでつまり大掃除というわけです。倉庫のじゃまっけな傑作を売り払ったらこのビルを建てた時からの借金が大方無くなってしまいますよ。税金が問題だけどね。」
 そうするとあの趣味の良いコレクションの常設はもう見られないと言うことだ。急に店内は騒々しくなってきた。若い女性の二人連れが入ってきた。店主は電話を受けに席を立ち、画家とその評論家は不動産や税金の話を始めるのだった。私は席を立つ。
「夜の七時頃には始めるからね。」と評論家は私の方にすかさず向きながら言う。
「ああ、どうもありがとう。」私はたぶん来ないだろう。
 この画廊は気に入っていた。こんな騒々しい副都心のただ中にあって、広大な公園を別にすれば、数少ない知的なオアシスだった。それも一カ月後には単なる貸画廊になってしまう。転身の鮮やかなのは若い有能な経営者の特権なのだろう。
 ここの店主と話をするのも、側に居た画家とのちょっとした細いつながりによってでしかない。画家は片手を高く上げて私に別れを告げる。もっとも私もこの画家にわざわざソファーから立ち上がって、入り口まで送られるほどの人物でもない。おとなしく茶などを飲んでいたが、たぶん酔い覚めだ。親しい付き合いをしていたわけでもなかった。
 
 画廊を一歩出ると、とたんに車の騒音と人々の波と、疎ましくも情けないごちゃごちゃのビル。あらゆるビルの壁面に、その隙間に、歩道に掲げられた看板の不快きわまりない色彩の洪水に襲われる。しばらく歩くと私はそれらから逃れるために、さっさと地下に潜る。さして景観に変わりはないが。
 雨の日にはこの地下街が人の流れに溢れるのだが、十月になろうとして、やっと残暑も過ぎた東京の今日のような秋空まがいになると、さすがにわざわざ地下を通ろうという人も少ないためか、通路がやたらとだだっ広く見えるのだった。
 私は困った事をしてきてしまったらしい。さきほどの画廊で知り合いの画家に会い、お喋りをしていながら肝心の彼の作品については何も、一言もなく出てきてしまったらしい。まあいい。彼の作品についてだと? とにかく誰であろうと金と作品さえ出せば個展は開ける。ただこんないい季節に開けるかどうかはわからないが。
 個展を開くとき、画家は少しの間自分が分裂したような気分になる。画廊の壁にかけられた私と、街で、自分の部屋でぼんやりしている私、というわけだ。少々高揚し、そして身の細る思いもする。会期が終わると作品は一つ残らず彼の元へと戻り、そして部屋の埃がそこに積もってゆくだろう。
 
 都心の壁面と空間を貸し出している彼ら画廊経営者というのもまた妙な連中だ。第一彼らの商品の仕入先というものがそもそも尋常ではない。簡素に言うと彼らは知的な狩猟生活をおくる気の長い商人だと言えば持ち上げすぎかも知れないが、少なくとも文化の担い手としての自負がなければ商売としてはとてもやってはいられない。今や見られなくなってしまったが、かつては突然押しかけて来た無名画家と、彼ら画廊店主とのやりとりに私は一度ならず居合わせたことがあった。そういった見果てぬ夢を追い続ける人々の内でも、今も思い出す一人の男がいる。
 その男は自作の油彩画の全てをカラー写真に撮って、アルバムに整理し、作品カタログとして持ち歩いていた。それを都心に散在する画廊に順々に訪れては店主に見せるのである。三十前後の痩せた男で、私はその「カタログ」を見せてもらった。そこに見たのは奇怪な植物のように絡み合う緑色の太い線のパターンの繰り返しで、同様の作品がそのアルバムの最終ページまで延々と続いているのだった。狂気を感じた。シュルレアリズムさえ当時は一般画廊でめったに架けられなかったというのに抽象画のしかもこんな隠微なものを、と思わせる代物だった。そうしてカタログを見て言葉を失っている時、画廊の店主が奥の方から出てきて、彼を見つけるとすぐさま癇癪を起こした。
 「ふん! またか。君らのものなど絶対に買わんぞ。いくら見せて回っても無駄なんだからな!」と、私達の坐ったソファの前に立って怒鳴り始めた。太った体を窮屈そうにダークスーツで包んだその店主はなかなか迫力があった。どうやらこの痩せた男の来訪は一度や二度ではなかったらしい。私はただあっけにとられて眺めていた。その画家はまったく無抵抗で、まるで嵐の過ぎ去るのをおとなしく待っている痩せ馬といった体でうなだれてソファに浅く腰掛けているのであった。
 一緒に画廊を出て廊下を歩きながら、私はこういうものが売れるのか訊いてみた。彼は私の、売れやしないでしょう? といった調子にいささかむっとしてうつむくと、アルバムを指で撫でながら、「家に帰れば女房も子供もいる。売らなくてはどうしようもない。」などと、自然主義小説短編のような台詞をにべもなく言ってのけるのだった。とんでもないドンキホーテだ。そしてこの画廊の階段の壁に嵌め込まれたショーケースに常設されている、邦人の凡庸な風景画を見付けると、あれは誰それ、これは何やら会の先生で…、などとずいぶん画家を知っている様子なのだった。
「ほら、この人の描いた地面は固く叩かれた様でしょう…。」などと解説を始める。そんな印象派風厚塗りペンキ絵など、誰が描こうと知ったことではない。その頃、私は邦人の油彩画は物故作家の数人を除いては、あまりのつまらなさに辟易していて、まして現代中堅画家の名前まで憶えようなどとは思いもしなかった。だから抽象画をやるような若い画家志望が、美術手帳どころか何処にも出てこない、群れておとなしい羊のような画家の名前をあれこれ知っていることが奇妙だった。
 私達の出て行ったその画廊はその後一年もしない内に常設をやめてしまい、個展用壁面賃貸業になったかと思うと、しばらくしてバタバタと店をたたんでしまうと、中華料理店になってしまった。この界隈でそんなふうに出没した画廊は私の知る限り四、五軒はあったはずだ。絵画を飾るほどの余裕もない住宅事情もさることながら、上客にしても権威や利殖や倉庫に眠る財産の対象としてしか美術に金は出さないというのがどうやら基本らしい。彼らにとっては芸術などというものは子供のあそびで、貴金属に並ぶ「美術品」でしかなく、真面目に取りあうほどのものでもない。そうでないとしてもその扱いが露骨になってくると慧眼を持った画廊経営はさぞかし面白くもない商売だろう。私の住んでいる街の近辺にも画廊は出没した。それらは確か一年と持たなかったはずだった。
 あのアルバムを抱えた画家は活躍の場が狭められてその後どうしたことだろう。緑色の奇怪な繁茂という暗澹とした狂気はまだ続いているのだろうか。とりあえずそんなものを部屋に飾るわけにいかない、というのはもっともな評価だ。文学性と神秘に満ちた狂気のような絵画と、狂気そのものが描かせた悪性の排泄物のごとき絵画は似て非なるものだ。それは断じて一線を画す。そのような絵画には美術的感性の欠如が厳然としてあって、容易に見分けることができる。そして色彩のコンポジションについてもおよそふてぶてしいほどに鈍麻だ。それは筆致の荒さや丁寧な仕上げをした細密さなどには関係しない。
 絵画において恐ろしいのは、狂気などという派手で攻撃性のものではなくとも、描いた本人の人格的な何らかの異常や欠如、歪みというものが相当易々とその絵に暴露されるということである。筆跡による性格や精神鑑定が可能なように、自らの内部を知らせるそれは、どうあろうと画面に滲み出てくる。キャンバスへの避けがたい自己の投影は無意識下で暗黙のうちに成されて行く。私はこれら見知らぬ暴君が私のタブローを支配するのを面白くなく思っていたので、空き瓶やリンゴやオレンジを並べて描いたところで、それも充分抽象的であると判断すると、あの理論物理学者の概念図のような雰囲気を美術に取り込むことに成功した、科学礼賛の片棒を担いだ抽象画や、反対に熱帯植物的な増殖性や、淡々と種子を生む連作製作の方法を全て屑籠に投げ捨ててしまうのだった。しかしそんな放棄から作品が生まれるわけもなかった。
 私は何処へ行こうとしているのだろう。
 立ち止まるとそこは地下通路の行き止りにある広場だった。明るく人通りの多い所は通り過ぎて、薄暗い地下鉄の駅近くまで歩いて来ていた。さあ。私はこれにて退散だ。私はさっさと改札を通り抜け、地下通路のジュラルミンと大理石の洞窟をさらに深く下降して行くのだった。そして地下通路の轟音と金属の軋む音に揺さぶられてお馴染みの駅に帰り着く。
 
 暗いワインレッドの車両から出て、幹線道路沿いの洞穴の出口に上り立つと、不快のどうどう巡りの回路にイルミネーションが灯る。
 外は雨だった。霧のような雨がアスファルトを真っ黒に光らせている。おなじみの街路樹の、黒い影のような幹が雨に濡れて、それはますます忽然とした存在を主張していた。雨の中の公園の、自然の内のあの黒々とした木々をそれは思い出させた。木々のくっきりとした確固たる存在。心が霧のように朦朧として不明瞭な異物と化す時、静かに立ちつづける年輪を秘めた幹の存在感に私はいつも打ちひしがれた視線を向けるのだった。私の平面的な惨めな視界の中に似たような形を持ち、そこいら中に鬱陶しく乱立する「電柱」などとはそれはまるで違う。あたりまえだ。そんなものに私は脅かされはしない。ただそこに認めるものは僅かに斜めに立ったコンクリートの柱の、ぶざまで無神経な太い線分でしかない。それは鉛直線と水準器に基づいて建てられた雑多なビルと家屋のせっかくの整合性を、いまいましい灰色の円柱と電線のでたらめな黒い線分によって掻き回し、視界のすべての調和を無視した街並をいっそう悲惨な乱雑さに見せるといういう事だけだ。
 雑踏の中のあの騒々しくもおびただしい量の看板、幟、ポスター、それらは見られながらも常に無視されなくてはならない。私は別に何も探してはいないのだから。しかしそれらは確実に視庄神経を通過し、脳の奥に言語として忍び込み、焼き付けられてゆく。それは意識しなくとも私の脳を脈絡のない喧噪状態に巻き込んで行く。
 私は歩く。こんなふうに歩くしかないのだろう。私は私の部屋に向かって歩いて行く。そこには煙草の臭いの充満した空間が待っているだろう。飲み残しのコーヒーが机の上に冷えてそのまま置かれているだろう。雑踏の中の幽霊のように私は歩く。奇怪な視野にうんざりしながら街中をつぶさに歩く。宙吊りになって、黒っぽい絵の具の線を空しく開閉するだけの、冷え々としたユトリロの絵の中の通行人のように私は歩いて行く。影のように画面に添えられ、投げやりな筆致でキャンバスにひっかけられたあの雑多な絵の具の擦れのように通行人が歩いて行く。
 私はいったい何処を歩いているというのだろう。地球上のとある一画を歩いている気はしないのだった。この濡れたアスファルトの上が、月への旅の途中にアメリカ人が写してきた、あの青い宝石のような地球の一部だなどとはどうしても考えることが出来ないのだった。ここでは足の向くまま何処を歩き続けても、どこもかしこも同じような建物、同じような商店街、張り巡らされたでたらめな電線のデッサンが視界を埋め尽くし、そして箱庭のように愛すべき山河が、盆栽のように散在する。
 私は何処に休もうというのか。何もかも詰め込まれたこの街並を、この土地を、私は歩いて去ることはできないことを思い知るのだった。この雑然としたコピーの連鎖と反復の迷路から誰が逃れられようか。
 そうだ。ここは地球上などではない。ここは何処をどう曲がろうと、何処をどう潜ろうと、何処をどう走り抜けようと、何処もかしこも同じ顔をした人々と街並が延々と続く密室なのだった。ここは世界という地表の一部なのではなく、奇怪な閉ざされた灰色の悪夢の世界だった。
 私はこんな世界に溶け込むことはとてもできそうもなかった。このただ中に居る無神経をこれ以上訓練させたくはないと思うのだった。
 街並や都市の景観というものはどのようなものであれ、他ならぬ住んでいる人々の脳髄からの産物に違いない。我々は内面的にはいまだにバラック小屋に住んでいるのだろう。そしてやたらと金のかかったバラック小屋という馬鹿げたものしか建てられはしないだろう。厳く簡素と清楚を律した高度の単調さという得難い高尚な美点がここではもはや無趣味と経済性と想像力の欠如による俗悪さに変わり果ててしまっているに違いなかった。
 私は並木道を濡れながら歩くのを止めてアーケードに移動した。やがて中央線の駅に着く。もう雨は夜になってもやみそうにない。ここから向こうはアーケードもなく、平気で濡れていかねばならない。やがて私はあの「畳」がきっちりと詰め込まれた部屋に入るだろう。それはまさしく詰め込まれていなくてはならない。レディーメイドの小さな平面を詰め込んだ空間に切り売りされて乱立するアパートは何の疑問もなく受け入れられている。この家も、あのアパートも、それはとにかく詰め込まれている。見事に隙間なく、そしてそこにはさらにまだ、思い付く限りのあらゆる物が詰め込まれていくのだろう。
 
 
 
 
posted by JP.フィールド at 00:35| ウィーン | Comment(0) | TrackBack(0) | 文学・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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