2007年11月23日

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sky1q.jpg ビルの四階にある広い会議室で、私は四、五人の人々とさかんに話し込んでいた。誰かが紙コップを手にしたまま、立ち話を続ける私達の方に近づいて来て、彼の前に来ると、あやまってそのコーヒーをこぼしてしまった。それが見事に彼のスーツにひっかかった。周囲の人々はかなり騒々しく、この事件に気付いた様子もない。コーヒーをひっかけた本人もかまうことなく何やら彼にまくしたてている。
 私の友人はしばらくその喧騒と、上等のスーツを汚されてしまった不快に、体を細かく顫わせながら耐えていたが、突如怒りを爆発させて相手を蹴り倒し、周りの人々を殴りつけ、大声で叫びながら狂ったように暴れ始める。立っていた二、三人の男が止めようとするのだが、もはやその異常な怒りの爆発には誰一人歯が立たない。
 彼はまるで狂犬のようにそこら中をひっくり返しながら、物凄い剣幕で私に向かって来た。これはまずいとばかりに私は後退りに逃げようとするが、もう遅すぎた。数人が怪我をして痛みに耐えてうずくまっている。その時、部屋を出た廊下のL字形になった突き当たりに、折りたたんだ椅子が三脚ほど立て掛けてあるのを私は見付ける。とっさに私はそれを一つ掴んで彼の前に立ちはだかる。
 彼はもう完全に狂っている。私は今までこんな凶暴な様子の人間を見たことがない。私は椅子を振りかざし、彼の頭に振り落とす。二度、三度と彼を打ちのめし、やがて床に倒れてもなお私は椅子で殴りつける。彼が完全に動かなくなるまで攻撃を弛めない。
 私自身今までこんな行動を子細に考えた事もなければやったこともなかった。しかし夢の中の私は恐ろしく機敏で、非情で、容赦なく戦うのである。やがて彼が完全に意識を失ってしまうと、私は持っていた椅子を大きなテーブルの側に立て掛ける。
 やがてどこかに避難していたと見える人々が入ってくると、何も言わず、ぐったりとした彼をさっさと何処かへ運び去る。しばらくして私は閑散とした料亭の中に居て、扇形をした重箱の中に調えられた料理を前にし、食卓につくと先程の狂騒を思い浮かべながら、おもむろに食事を始めるのである。
 
 この夢の中での出来事はその後、現実の中でさえ、私を一カ月近くも困惑と空想に誘い込んでしまった。それは私が想像もしなかった私自身の行動を夢に見た事のショックもあったが、この夢が覚醒時にも纏い付くように謎をかけてきたのであった。だからこのリアルな夢を思い出すことはいまだに気詰まりを感じるほどだ。というのも夢で暴れていたのはあの向精神薬の世話になっている友人であって、その後、実は彼も夢の中で私と同様の事件にあっていた事が判ったからである。
 彼との友人としての関わりは、どちらかと言うと私の方が歩み寄ろうとしていたのかも知れなかった。彼は不眠と幻覚に苛まれる病人である。私を相手に憎しみと復習を語る人物としては、否定も肯定もせず、私が本当には彼をどう思っているかということは曖昧にされて来た。そのような苦々しい憎悪と自らの首を締め続けているかのような精神状態に対して、確かに私は真向から反対の立場に居なければならず、そのような世界に巻き込んでほしくもなかったからだ。その隠された態度が決定的な形をとって夢に現れたのだろうと考えて私はさっさと片付けようとしていた。
 しかしその後二、三日して当の本人から連絡があった。実際、彼から何にしても連絡が来るとは思いもしなかった。もちろん初めての事だ。私としてはこの生々しい夢のために彼とは久しぶりとは思えず、現実と夢の隙間に立たされた体で、何とも妙な気分で電話の声を聞いた。
 電話の用件は彼がついに強制的に入院させられる破目になったことで、お別れの挨拶だった。そこで私はこの二、三日の彼の容体を訊いてみた。やはり入院を決定させるほどの興奮状態で、かなり暴れたらしい。もはや私はこんな質問を奇異とも思わず、思い切って私の見た夢の内容を話してみた。どうかと思いながらも私は自分の、誰にも知られることのない「犯罪」を告白して、重苦しいこだわりから開放されたかったのかも知れない。彼は興味を示して、この夢の内容を聞き終えると、「…それは似ている。確かにそんな事があったね。」と妙な言い方をした。まるで彼と私はその夢の中で実際居合わせたことを思い出すかのような言い方だった。彼が思い出しながら話した事件の細部は、私が夢の中で格闘した状況と符合していたからである。
 コーヒーをこぼしてスーツを汚してしまったことは一致している。また、叔父が来ていて埒のあかない口論を激しくしたこと、失神した彼を二、三人で別室に運んだらしいことなどを私に告げた。それらの顛末より私を最もゾッとさせたことは、彼がその日見た夢の中で、私をアイスピックの様なもので何度も突き刺した、と話したことである。その夢の中で私は彼の前に満面笑みを浮かべて立ち、彼は手にした鋼鉄製の鋭いもので、「助けてくれ」と叫びながら私の心臓のあたりを突き刺すのである。そして私の体からその凶器を引き抜いても血は一滴も出ることがなく、私は何も言わずに笑みを浮かべながら立っているのである。
 私は背中に冷水を浴びた様な気がした。彼の声が遠くから聞こえて来た。こちらからはもう電話が出来なくなるからと、入院することになった病院の電話番号を伝えるのだった。私は遠くの相手に一応お別れを言って、こちらからまた電話をするかもしれないと伝えるとやっと電話を切った。私は心中おだやかではなかった。今自分の立っている床板が幻のように消え去って、明るい部屋の光景が一瞬の内に歪んでいくかのように感じた。まるで夢の中から地続きで歩き出して来た私がここに立っているかの様な、何とも知れない違和感がしばらく続いた。
 むろん私にも、彼のような精神状態にある人間の言うことをうのみにするのはどうか、と疑う余裕はあった。しかしそれにしても彼の伝えた夢の話はあまりに不意討ちで、しかも彼の身辺にありえない状況でもなかった。第一あの「アイスピックのようなもの」という、彼の持つ凶器としては普通ではないリアルさ。突き刺しても血を流さず笑顔で立ち尽くしている私、などというものを初めて聞く夢の内容に応じてとっさに思い付くものだろうか? そして私を殺そうとしている行為の最中で当の相手に助けを求めるという激しい矛盾。これらは確かに夢特有の不可解さを顕している。激しい怒りの発作の報告も含めてやはり信じざるを得なかった。つまるところ彼と私は互いの夢の中で激しく攻撃し合ったのである。
 あのようなまったく私らしくもない行動をする夢を見た原因かもしれない現実の事柄が何とも奇妙な形でその隠された内容を明らかにし始めたと感じるのだった。やがて時の過ぎるにつれ、その気味の悪さは私の思考をまったく非現実的な方向に強く導いて行くようなしまつだった。
 実際のところは何も明らかになってなどいないのだ。私はその後、二、三の友人に両方の夢の内容を話して感想を求めてみた。一人は私と彼との間のただならぬ関係を探ろうとし、一人は肉親間の夢の一致に似ていると言い、ある者は私が彼に対して非常な敵意を潜ませていたのが夢に現れただけだと簡単に分析した。
 しかしそのどれも私はすでに考えていたし、これらもっともな解釈はあの夢と現実の符号、夢と夢の互いの目的の一致の奇怪さを氷解させる所に導いてはくれないものだった。私には何故この様な事が起こるのかということ自体が興味深く、何時までも釈然としないままだった。
 やがて彼が入院して一ヶ月ほど過ぎた。お互いにこれらの事を冷静に話せる頃を見計らって私はその病院に電話をしてみた。さすがに閉鎖的な対応であった。まず女が電話に出た。
 「彼が入院した事を誰にお聞きになりましたか?」と言う。
 私が本人に聞いたことを伝えると、さっそく何処か別の所へ電話をつなぎ、今度は医師らしき男の声が応対するとそこでまた待たされた。
 やっと電話に出てきた友人は意外なほど元気な様子の声で、私は何か肩すかしを食わされた思いがして二の句が出ないほどだった。何とかあの夢の話を持ち出そうとする私の方が病院にいるべきかもしれなかった。彼は運動会の下準備に忙しいなどとつまらぬ事をまくしたてる。そこで電話が切れてしまった。喫茶店の公衆電話からかけていた。電話をかけなおすと驚いたことに先方はまたも先ほどと同じ手順をだらだらと続け、やっと彼を出した。私は待ってもいられないので自分からあの夢の話を持ち出し、「もう二度と私を殺さないでくれよ」と言ってみた。彼は笑いながらも間違いなくあの夢のことと察して「ああ、もうやらない」と妙にはっきりと答えるのだった。夢についての面白い話をもう少し伝えたかったのだが、どうも盗聴されている気配もするので、手短に近況を述べると辞して電話を切ったのだった。
 私はそれきり二度と彼に電話をしなかった。今となってはもう、あの入院直前の出来事のさらに詳しく正確な事柄を彼から聞き出すのは遅すぎる。現実の記憶さえ曖昧で薄れて行くものだし、強烈な印象を残した体験には後々尾ひれがついてゆくものだ。しかしあの病院への電話でその時の状況の詳しい事柄を彼から引き出したとして、それが何になったろう。もし万一、彼の話の中に私の夢に現れたあの扇形をした重箱や、折りたたみ椅子が出て来たりしたら…。いよいよ私の困惑と恐怖はただただ増すばかりだったに違いない。
 
 
 
 
posted by JP.フィールド at 00:45| ウィーン | Comment(0) | TrackBack(0) | 文学・小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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